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Milkのメモ帳

日々の思いつきを忘れないようにのメモ用です。

Milk's Memo Note

日々の思いつきを忘れないようにのメモ用です。

芯や信念を持つとは何か

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こんにちは。Milkです。
今日は少し真面目な話をしましょう。

とあるブロガーさんと話をしていて、「Milkには信念があり、芯がある。」と言われました。

そして、憧れるとも・・・

確かにそれは、私がずっと大事にしていたことです。

しかし、それが楽な生き方であるとは思いません。

あまり、まとまりはありませんが、今思うことを書こうと思います。

芯や信念を持つとは

私は、昔から筋が通ってなければ納得しない癖がありました。

今の社会人からすると、「悪い癖」でしょう。

自分でも分かっています。しかし、不器用であるため、この生き方を変えることが出来なかったのです。

宗教は悪であるのか

さて、自分の中での物事の判断基準をどのように持ったら良いのか。

これは、多くの人の「人生のテーマ」であると私は考えています。

古来より、人々は神を崇拝することにより、自分たちの判断基準を均一化しようとしてきました。

この宗教を基準とした判断基準が廃止されたのは、進化論が出てきてからで、実は歴史的に言えば本当に最近の出来事になります。

私個人の意見で言えば、宗教を信奉し、それを人生の判断基準の核として据えることに反対はしません。

それは自由なことであるし、またブレないという意味でも本当に立派であるからです。

日本は特に、「無神論者」が多いため、この「宗教=悪」の構図が付きやすい結果となります。

また、同調することを強要する民族性も相まって、宗教と聞いただけで嫌悪感を抱く人もいることでしょう。

これは、根本から言って、人の考え方の優先順位が異なることが原因です。

日本人は無神論者が多く、あくまでも物事の判断基準の核は、必然的に「己自身」となります。

しかし、宗教を信じる人々は、「神」が中心であり、それを信じ、神の教えを全うすることが優先事項となるのです。

例えで話しましょう。

適切ではないかもしれませんが、夫婦と子供がいるとします。

不慮の事故により、配偶者あるいは、子供のどちらかの身代わりしか出来ないとしましょう。

どちらを選びますか?

配偶者ですか? 子供ですか?

どちらも正しいはずです。 そして、それを選択した結果を責められるいわれはないでしょう。

そのようなことなのです。

宗教を信奉し、神を中心にして身を捧げる人々を盲目的だと非難する人たちがいます。

それは全く違います。

何故ならば、彼らは自らを犠牲にし、そして沢山の選択肢の中から一生懸命に考えぬいた結果、そのように行動しているからです。
(洗脳的に強要する、怪しい自称宗教と名乗る宗派は除くとします。)

ですから、彼らを愚かだとかそういう見方で見るならば、一生彼らと理解しあうことは不可能でしょう。

そして、彼らは自分の中に神の律法を持っているために、悩みはしますが芯はブレず強いのです。

それは決して盲目的な判断ではありません。己と対話し、神に忠誠を誓うかという信仰心による決定なのです。

では、宗教を持っていない人はどのように芯を持つべきでしょうか。

むしろ芯や信念は必要でしょうか?

己の生き方を定義する

個人的な意見として、芯や信念は己の方向性を確定付けるために必要なものだと考えています。

ただし、無神論者となった場合、何を基準としたら良いのか迷うでしょう。

私もその一人です。

少しだけ話をすると、私は20歳までクリスチャンでした。

20歳の頃、出来るだけ多くの資料を調べ、調べ尽くして・・・

そして、ひとつの結論に至ったのです。

「正しすぎる。正しすぎて、私は醜い。耐えられない・・・」

今でも覚えています。大いに悩みました。

クリスチャンとして生きていくのか、それとももう辞めて”一般の人”と同じように生きるのか。

そして、クリスチャンの求める基準に照らし合わせた時に、私の欠点が影のように後ろに大きく伸びていくことに耐えられなくなったのです。

私は醜すぎる。

そのために、私はクリスチャンであることを辞めました。

だからこそ、両者の気持ちや事情は痛いほど分かるのです。

さて、基準がなくなった私は路頭に迷うことになります。

一体何が正しくて、何が正しくないのか・・・

何が常識で、何が非常識なのか・・・

私には何も分かりませんでした。

20年間が真っ白になり、私には何も中身がない人間になってしまったように感じたのです。

しかし、苦しみながら、ゆっくり考えました。

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自分の中に何かを持たないと、私はきっと周りに流され、何も己を持たずに生きてしまうだろう。

それは正しいだろうか・・・少なくとも、私の答えは否でした。

では、何を基準としようか。

確かに、クリスチャン的な基準が私のベースにあることは認めます。

しかし、再定義を始めることにしたのです。

会社の中で働き、多くの人たちが悩み苦しんでいる。そして、己だけを守るのに必死である。

私は悲しかった。少なくとも私には、とても悲しい風景に思えました。

貴方の芯は何ですか?

正しいと信じたことを貫き通すなら、結果的に一人になることになる。

そのことには、慣れていました。

だから、己の中での信念に反したことをした時、自分が許せなくなる。

その事の方が、私は怖かったのです。きっと、私は本当に姿も形も失くなってしまうと思ったから。

では、何を私の中心に持ってきたら良いのだろうか。

数年間、試行錯誤しました。

自分が嬉しいことをする

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シンプルに考え直すことにしました。

それは、「自分が嬉しいことを、他人にする。」でした。

あまり深く考えないようにもします。

それは偽善的で、見返りを求めている行為なんじゃないか?とかそんな気持ちが湧くことがあります。

でも、そんなことは結果的にそうなったとしてもいいのです。

今はそうしたい。その人の力になってあげたいと思ったのだから、そう動けばいい。

そのために自分を犠牲にすることは、きっと良いことだ。と信じるようになりました。

これは人それぞれに思うことがあるでしょう。

だから、これが絶対に正しいとは言いません。

でも、己の過去を振り返り、何を芯にしてあるいは、信念として生きているか・・・

それは、言動で分かるものです。この人は、本当に多くの経験をしてきたのだなと。

そして、その結果から導き出した答えは、人それぞれでありその人の核となるのです。

経験は似ていても導き出す答えは異なる

そのブロガーさんと話をしている中で、己の核が見出だせないと相談されました。

確かに、過去にとってきた行動にはそれが表れていなかったかもしれません。

でも、その経験から獲得した、または導き出した答えは、確実に心に持っています。

その方と、私は、辛い経験から導き出した答えと対応が異なりました。

私は共感する道を選び、その人は元気付ける道を選びました。

各々で出来ることは異なるし、得意なことは異なるのです。

だから、決して自分を「無駄な人間」と結論付けるべきではありません。

意味のない時間はありません。そこから何かしらの答えが得られるでしょう。

人間は、互いに補い合うことで、やっと完成するのですから。

最後に

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私は、相談に乗ったり、共感をすることが得意なようです。

人を慰めたり、同じ気持ちになって、一緒に悲しんだり、楽しんだりすることが出来ます。

でも、その人を元気な状態に引き上げることは、実は苦手だったりします。

出来ないわけではありませんが、共感よりも難しいのです。

人には得手不得手があります。

だから、貴方も信じることを何か見つけてみて下さい。

そして、互いにそれを発揮することで、きっと周りは有意義で意味のある空間へと変わっていくことでしょう。

辛くとも、私はその生き方を変えたいとは思いません。

それは、己自身であり、アイデンティティーでもあるからです。

悲しいこと。辛いこと。それを少しでもなくして、これからの後輩に託していく。それが私達の役目です。

ですが、これに固執して私自身を壊しては意味がありません。時にはずるく逃げる必要もあります。

それを覚えることが大事でしょう。この病気はそのことを教えてくれました。

ずる賢く生きる。私は狐ですから(笑)

さて、長文になってしまいました。

何を芯や信念として持って生きるか。それは長い間、悩み続け、そして変化していくことでしょう。

そして、それを考えて生きていく人に、人間的な魅力と厚みが付加されていくのだと、私は信じています。