こんにちは。Milkです。
数年前から私はゲームをよくするようになりました。
好きなものは「ストーリー」を重視したもの。その世界観に没入出来るものです。
任天堂よりプレステ(PlayStation)派です。
今回は、その中でなんとなく感じ取った「流れ」のお話。
さて、数ヶ月前にとても大きなタイトルが発売されました。
それは「デスストランディング」
色んな話題性を持ったタイトルで、「コジマプロダクション」初のタイトルであることも注目されました。
(補足:小島秀夫氏はコナミのゲーム会社で副社長まで務めましたが、追い出されるような形で退社を余儀なくされました。しかし、数々の大ヒットタイトルを生み出して来ました。)
内容はというと、荒廃した元アメリカの土地で、点在する都市を配達で「繋げていく」というゲームです。
うん。全く意味がわからないと思います。
こればっかりはやってみないと伝わらないというか・・・賛否両論あります。
今回は「ゲーム要素」にはフォーカスせず、「世界観」に敢えて注目したいと思います。
「カー」と「ハー」
「カー」と「ハー」
これを言われた時に、ぱっと何を意味するか分かる方は凄いと思います。
この「カー」と「ハー」という概念は、古代エジプトのミイラにまで話が遡ります。
古代エジプトでは、魂と体は分離されるものであると考えていました。
「カー(精神)」が「ハー(肉体)」から離れた時に、「死」が訪れると考えていたのです。
また、感情や思考は脳ではなく心臓に宿るとも考えていました。ミイラは体を長く保存出来るよう臓器を全て摘出しますが、この考えに基づいて例外的に心臓だけが残されました。
(もちろん、今では脳内の神経伝達物質であるホルモンによって現れると考えられています。)
「デスストランディング」では、「ビーチ」という単語がよく使われ、座礁した魚やクジラたちが沢山いる海が映像として出てきます。
これは簡単に説明すると「三途の川」です。これを渡り切ると完全なる死に至るということ。
今までは、「死後の世界」というものが妄想や憶測の域を出なかったが、「ビーチ」と目に見える(生きている)世界が繋がってしまったが故に、現実問題として「死後の世界」を認めざる負えなくなった。
という形で「デスストランディング」は話が進んで行きます。
近年注目されるタイトルは「人とは何か」
ゲームシステムの観点で言えば、オープンワールド系と呼ばれるシステムがヒットするようになりました。
もう一つは、世界観(ストーリー)もヒットする要素にあるように思います。
例えば、「BloodBorne」と言うゲーム。
2015年に発売されたタイトルで、今でも売れ続けているプレステのイチオシタイトルです。
(プレイ難易度が高すぎて「死にゲー」『何回もリトライして敵の配置や要素を根気強く覚えていくゲームのこと』という分野を確立しました。)
このゲームのストーリーは、クトゥルフ神話を題材にしています。
「クトゥルフ神話」は「ギリシャ神話」のように長く語り継がれてきたものではなく、小説として意図的に作り出された神話です。
(ギリシャ神話も演劇の為に整えられたと考えると、どっちもどっちな感じもしますが)
このゲームの中でも「カー」と「ハー」という考え方は根付いています。
主人公は、「カー(精神)」の世界に囚われており、「ハー(肉体)」を持っているのか分からない状態で、話が進行していきます。
自分に見えているものは、「カー」なのか、それとも「ハー」なのか。
そもそも、醜い状態で表現されて襲ってくる敵は、倒しても良い対象なのか?
疑心暗鬼にも近い状態になります。
また、このゲームはストーリーがかなり難解です。
複数のエンディングが用意されていますが、一番難易度が高いエンディングを見ても「???」という状態に。
人間。そして「上位者」と呼ばれる人間から見ると「神」に近い存在。
そこに辿り着こうと画策する者たち。
その実験の中で生まれた犠牲者たち。
犠牲者の成れの果てである「獣」
「獣狩り」を行うハンター。
ハンターが人間性を失った最期。
もがきながらも救いがないループと関係性。
そのキーとなる「Blood(血)」
ストーリーが難しい(考察で補わなければならない要素が多い)ため反省したのか、もう少しストーリーラインを明確にして、2019年には、「SEKIRO: SHADOWS DIE TWICE | 隻狼」というタイトルが同じ会社から発売されました。
今度は、「デスペナルティー」という要素が入りました。
ゲームの中で「死ぬ」のは当たり前ということを否定して、「死んで生き返ることが本来の自然の摂理から外れている」という考え方です。
あまりにも、ゲーム内で「死に」すぎると、自然の摂理から逸脱している影響が他の人々に飛び火していきます。
(関係者に原因不明の病が蔓延し始めます。最悪はストーリーのキーパーソンが死んでしまい、その人に関するストーリーは進行できなくなります。といっても、難しすぎて何度もリトライすることになるので、すんごい難しいゲームなのですが・・・)
因みにですが、「SEKIRO」では仙峰寺というフィールドがあります。
そこの僧侶たちは「永遠の命」を手に入れることに躍起になり、狂信的な状態になっています。
2019年の「The Game Awards」は、「デスストランディング」と「SEKIRO: SHADOWS DIE TWICE | 隻狼」で数々の部門の賞を分け合いました。
(「The Game Awards」は世界中のコンピュータゲームが審査の対象になります。)
なぜ「カー」と「ハー」の世界が注目されるのか
「死後の世界」や「魂」といったものは、大変昔から人々に影響を与えて来ました。時には歴史の中で重要な決定を下す要素になったりもしてきたわけです。
しかし、宗教観が薄れていった現代では、その傾向が小さくなったように思っていました。
「カー」と「ハー」という概念がもう一度、人々の心を捉えているのは、「AI」の存在ではないだろうかと個人的には考えます。
1968年に「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」という小説が発表されました。
これは後に、「ブレードランナー」として映画化されました。
(個人的には、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」の肝心な要素が抜けていて、がっかりしました。)
この小説が画期的だったのは、「機械」は「人の心(精神)」を持つことが可能か?何が人と機械を分けるのか?
そのキーとなるポイントが「カー(精神)」であり、その有無が人間と機械を唯一分ける要素であると訴えている点です。
行動や思考が人間に近づいていくと、人は機械と何が異なるのかという「不気味な」テーマが生まれてしまうわけです。
計算速度だけを取り出してしまえば、圧倒的に人より勝るわけですし。
その「カー(精神)」の象徴として、人は眠る時に「夢を見る」ということで表現しました。
1960年代では一つの小説(エンターテインメント)で留まっていた事柄が、60年後の私達には「現実問題」として提起されつつあります。
「AI:artificial intelligence」の、ある側面、そして究極的な目標は、「人を再現すること」になります。
何かの条件分岐に基づき感情は発生し、思考は巡る。それをプログラムに置き換えることは可能ではないだろうか?ということです。
それを如実に再現したのが、「Detroit: Become Human」というゲームです。
アンドロイド達に「自分について考えること」、つまり「カー(精神)」をプログラムし実装出来たとしたら、それを新たな生物として定義出来るかという内容です。
「アンドロイドは機械である」と考える人。
「思考(精神)を得たのならば生物である」と考える人。
「自分は”壊れている”」と考えるアンドロイド。
「自由を得る権利がある」と考えるアンドロイド。
様々な人の視点で、この問題を凝視し、選択を迫られます。
このタイトルもヒットしました。
最後に
「AI」が人の模倣を行えた時、「AI」をどのように取り扱うか。
この可能性と危険性はその分野の研究者の中でも意見が分かれます。
ただ、事実として言えることは、現段階で「AI」が「カー(精神)」を得ることは出来ていないということ。
そして、その方法も見つかっていないということです。
また、それと同時に人々の中で、自分自身が何者であるか問うことも少しずつ始まっているのかもしれません。
それでは、今回はこの辺で。
adios!!